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Ride White Horse 「ライド・ア・ホワイトホース」

型番 Ride White Horse 
定価 5,060円(内税)
販売価格 5,060円(内税)
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「ライド・ア・ホワイトホース」Ride White Horse
1968年度作品
監督;ボブ・エバンス


ボブ・エバンス


60年代のクラシック・ロングボードのベストを抽出したUSA「エンドレスサマー」に匹敵するオーストラリア版リアル60S。


主演:ミジェット・ファレリー、マット・ヤング、ボブ・マクタビッシュ

1962年 マカハインターナショナル・チャンピオンシップ
ミジェット・ファレリー、
→ 「1962年 マカハ・インターナショナル
Makaha International Surfing Chanpionships

記録上最古のコンテストである。始まりは1952年ジョン・リンドの呼びかけで地元のライオンズクラブとワイキキサーフクラブの協力で開催された。ちなみにジョンとはホノルルのサーファーでレストラン経営をしていた白人である。

しかし波不足で中止となると地元マカハとワイキキのサーファー間で緊張が高まり、翌日にはハワイアンとカリフォルニアの間に険悪なムードにまで発展した。トラブルが具体化するには理由は何でもよかった。結局
伝統的な「豚の丸焼き」の料理法をめぐって殴り合いの喧嘩になり第1回は幕を閉じた。

ローカルにとって当時からマカハは特別な場所であった。サーファーが初めて大波を滑った海で、ハワイアンの血が受け継がれる聖地なのだ。
そこのコミュニティーはハワイ原住民でアメリカに占領されて以降、彼等の多くは失業して生活保護やフードスタンプで暮らしいた。白人観光客の車が荒らされたり、ビジターの白人サーファー(ハオレ)が海に入る前にパンチアウトされることも日常茶飯事だった。
それを理由に大部分の白人サーファーはノースショアーを目指した。
まさにローカリズムの権化で狭いエリアにマッチョイズムとヴァイオレンスが充満した土地柄で知られていた。だがその一方では誰に対してもオープンで困っている者には寛大でさえあった。


ジャッジもマカハらしく独自の方法で行われていた。当時メインランドのコンテストは6人1ヒートで行われたが、ここでは24人が一度に沖に出て波に乗った。

それゆえ10年間優勝者はハワイアンに、、

その後、50年代末まではオーストラリアとペルーからも参加するようになり名の如くインターナショナル化した。
しかし依然としてジャッジはマカハスタイルで行われた。

1962年11月中旬、カリフォルニアのマイク・ドイルはコンテストの前にマカハの波を知るために、ハワイのヒーローでもあるバッファロー・ケアウラナを表敬訪問した。もちろん冷えたビールを数ダース持参でだ。
帰り際バッファローは「マカハでは誰も君の邪魔をする者はいない。波に乗りなさい」と威厳を込めて言った。
数日後カメラマンを連れてマカハに行くが車を止めて僅か20分でカメラとサーフボードを盗まれた。ショックを受けたマイクはバッファローに陳情に行ったが「心配しないでサーフィンしておいで」と言われ、言われるままにサーフィンをして数時間後に車に戻るとカメラもサーフボードも戻っていた。だが忘れてたいけない。元々ハワイはハワイアンの土地だったことを。アメリカにレイプされ土地や文化や言葉までも失いかけていた。だからマカハローカルがサーフィンまでハオレに奪われることは許されなかった。

テレビ時代の到来 
この年から3年間アメリカのABCテレビのスポーツ番組で放送され、そんな状況でミジェットは初めてのハワイを 17歳過去マカハのコンテストは


この2年後、ミジェットは地元シドニーで開催された、、、で優勝。この模様なオーストラリア全土で初のテレビ生中継され、サーフィンは国民的スポーツとしての地位を確立した。
何たってアメリカを地元で破ることほど気持の良いことはなかった。

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